「デフリンピックだからこそ夢を持てる!」

栗本紗弥さん(第21回夏季デフリンピック・空手道女子50~68kg級・金メダル)


空手の構えを作る栗本選手

―空手を始めたきっかけや当時の思い出を教えてください。
ろう学校は幼稚部に通っていました。その後地元、豊後高田市の小学校に入ってまもなく、母に勧められて空手教室に行ってみたら、近所の友達がたくさんいたのですぐ入会しました。週2回の練習で、男の子も女の子も一緒でした。大会では男女別に試合をやっていましたが…。
いつの間にか、空手の練習が生活の一部になっていて、そうなるともう止められなくなっていました。それに子どもの頃はとにかく体を動かすのが好きで練習の休み時間も駆け回っていて、そう「腕白少女」でしたね。

―コミュニケーションは大丈夫だったのですか。
相手の話は口の形の読み取りでなんとかわかりました。自分の声が相手に通じないときはわかってもらうまで話をくり返していました。でもこれは一対一の場合であって、みんなに対する先生の話はわかりませんでした。そんなときは、周りを見るというか、雰囲気的にどんな指示が出ているのかを想像して練習していたと思います。自分の動きが悪いときは先生がそばに来て直接身振りで教えてくれました。

―小学校の時に始めた空手をずっと続けているのですね。何か原動力と言うものがあるとすればどんなものでしょうか。
中学校では空手部に入ることになり、それまでの遊び心がなくなったようで、この時代が一番つらかったように思います。2年生の時に団体戦出場メンバーを決める試合があって、最後一人を決める試合に出て負けてしまいました。相手の選手は私よりあとに空手を始めたのに、負けてしまってものすごく悔しかったです。空手は個人の力がものをいうので、自分の力不足を情けなく感じました。他にも練習などが厳しくて空手をやめたいと思ったことは何回もありました。
しかし、やめないで続けられたのは、2つの大きな理由があります。ひとつは、二歳年上の強い先輩がいて、自分もそういう女性選手になりたいとめざしていたこと、もうひとつは空手が生活の一部になっていたからです。やめたいと思っていたことは誰にも話したことがありませんので、母も最近知ってびっくりしていました。
高校時代は楽しかったですね。高校1年の最初の大会で、団体戦のメンバーに選ばれたのですが、私のせいでチームが負けました。この時1年生の女子部員は私1人だけでしたから、決して迷惑をかけたくなかったのに、結局はみんなの足を引っ張ってしまい、そのことで先輩たちに大変申し訳なく、自分でもすごく悔しい気持ちでした。これがきっかけで、「自分の『組手』を変えたい」と強く思い、練習でも常にそのことを意識して頑張った結果、その年の九州大会やインターハイの団体戦にも続けてメンバーとして選んでいただきました。そして、10月からの大会では先生も先輩も私を団体戦の主力として見てくれるようになり、それがとても嬉しかったです!
高校時代は、個人戦や団体戦を問わずたくさん試合をこなしました。大変楽しく充実した時代で、母も「応援など楽しかった」と言っていました。

―強くなっていくという実感、それは帯の色でもわかりますよね。
そうです。はじめは白帯でしたが、高校1年の時に初段に合格して黒帯を締めることが出来ました。白色の空手衣に黒帯はかっこいいですよ!そして、高校2年の時に二段に進級しました。

―空手の魅力は何でしょうか。
難しいです!全部がいいところだと思うんですけど、これでは説明になりませんね。相手と思いっきりぶつかり合えるところかな、そう「ルールがあるケンカ」という感じでしょうか。

―ところで、デフリンピックに出たいと思ったきっかけを話してくださいますか。
高校1年の時「全国障害者空手大会」に参加して、同じ聴覚障害の選手から「デフリンピック」の言葉を初めて聞きました。台北大会から空手競技が新しく始まることも知って、出場したいと思うようになったのです。
全国障害者空手大会は毎年開催されていて、台北で一緒に優勝した小島選手なども毎回出場しています。日本ろう者武道連合があることを知ったのもこの大会です。

―日本代表に選ばれたときはどんな気持ちになりましたか。
代表候補に選ばれたときは安心しましたが、実際に国際試合で勝てるのかどうかすごく不安がありました。小島選手や高橋選手は国際大会を経験していますが、自分は台北が初めてであり、世界の空手を知らないという意味で非常に不安でした。
また、体重クラス分けの関係で高橋選手が出場できなくなり、日本の女性選手は私ひとりだけになり一層不安が増しました。しかし、高橋選手の分も頑張ろうと気持ちを切り替えたこと、そして高橋選手や小島選手が世界の空手についての情報や経験をいろいろと話してくださったので、次第に不安がなくなっていきました。

―代表に選ばれてからの不安が大きかったのですね。台北は初めての国際大会だったそうですが、出場してどうでしたか。
デフリンピックの開会式にすごく感動しました。オリンピックの開会式で入場行進をしたような感じで、普通ではとても経験できないことだったと思います。空手競技の試合会場でも世界の人たちがたくさん集まっていて、国内とまったく違う雰囲気で圧倒されてしまいました。
試合はトーナメント形式で、選手の少なさから2回試合を勝っただけで優勝したんですが、日本と世界のルールが違うことに戸惑いました。デフリンピックのルールは厳しく、きちっと寸止めにしないと反則に取られてしまうんです。寸止めに気を遣いすぎて疲れてしまいます。
決勝は、相手が練習で突きだけでなく動きもずいぶんスピードがあったので勝てるかどうか不安でした。でも周りから「普段どおりにしろ」といわれて、自分もそのとおりにしたので落ち着いた試合運びが出来たことが優勝に結びついたのだと思います。

―国際試合に臨むときはルールをきちんと前もって勉強して、慣れておく必要があることが大切ですね。優勝おめでとうございます。金メダルはとっても嬉しかったでしょう。
優勝して、すごく気持ちが安心できました。ほっとしました。応援席にいた母を見たらぽろぽろ涙を流していました…。表彰台で金メダルを首にかけてもらうと、嬉しさが一段とこみ上げてきました。今までも国内大会でメダルを取っているけれど、世界の金メダルはすごく重みが感じられて、実際に重たく感じて「感動!」があふれました。これがオリンピックの金だったらもっといいかな。余談ですが、帰国してからの大分県知事への報告の方が数倍も緊張しました。

―台北デフリンピックで他に印象に残ったことはありますか。
男子も小島選手が金メダルを取ったので、宮下監督がその晩に夕食を奮発してくださったこと。すごく楽しい夕食で、忘れられない想い出になりました。
ほかには、どこかの国の17歳の選手がせっかく台北に来たのに試合直前になって年齢ルール違反とわかって、試合に出られなくなったのを目のあたりにして気の毒に思いました。自分も国際試合のルールを勉強していなかったのを反省しなければいけませんが。
それと、ドーピング検査で順番を待っている間に、ベネズエラチームのコーチ、健聴者だと思うのですけど、身振りが通じて試合のことなどたくさん話せたのです。身振りでも通じるのだと感激しましたし、そのコーチと交換したバッジはわたしの宝物です。

―台北ではインフルエンザの流行もありましたが、日本代表として心がけたのはどんなことでしょうか。
そう、インフルエンザの話があったので体調を崩さないことをまず心がけました。病気になったら試合に出られなくなるし、例え出られたとしても体が動かなくて自分の組手が出来ないでしょう。だから疲れを次の日に持ち越さないために、夜に遊びたいと心がはやるのを我慢して、部屋でおとなしくして睡眠もたくさん取るようにしていました。

―最後に、デフリンピックをめざす皆さんへのメッセージをお願いします。
デフリンピックに出たいという気持ちを忘れなければ絶対出られると思います。皆さん、はっきりとした目標をもって一緒に頑張りましょう。わたしも4年後を目指したいです。
でも、正直言いまして健聴者と組む試合の方が好きです。それは自分が子供の時からずっと健聴者と一緒に練習を続けて、いつもぶつかり合っていたからで、その楽しさを知っているからだと思います。
そういう気持ちがあるけれど、やっぱりデフリンピックは大切なものです。それはデフリンピックで夢をつかむ、もらう、分かち合う人がたくさんいるからです。聴覚障害を持っていても、デフリンピックに出て頑張る、メダルを取ったんだと、そういう夢と感動を市民に広く伝えられるでしょう。オリンピックもそうだといわれるけれど、デフリンピックしか出来ないことがあります。
でも、マスコミはパラリンピックとオリンピックばかりを取り上げますね。もっとたくさんの市民にデフリンピックのことを知ってほしいです。大分県では大分県民賞と豊後高田市民栄誉賞を頂いたので、知事と市長がデフリンピックを知っています!
地元でも空手教室の先生を初めとするたくさんの知人・友人が喜んでくださったので、彼らのためにももっと頑張りたいです!

2009年11月27日 大分県聴覚障害者センターにて
聞き手:全日本ろうあ連盟スポーツ委員会 大杉 豊

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