『津波と知らずに一夜明けて』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『津波と知らずに一夜明けて』(2011/12/13掲載)

名取市 Sさん

 あの日、食事の準備をしていた時に突然の地震。以前の地震とはまるで比べものにならない程の強い揺れで、時間はとても長く感じました。私の視界には、みるみる物が落ちていく様が飛び込んできて、ガラス障子も割れました。

 倒れた灯油のタンクの始末をしている時に、近所の顔なじみの不動という店の人が来てくださいました。手話がなくてもなんとか身振り手振りで通じ、店に移動。揺れがおさまり、一旦家に戻りました。辺りは倒れた物が散乱していました。店の人に言われた通り、ジャンバーと長靴姿で、家から2分程の閖上中学校へ、近所の方々と一緒に向かいました。その時は津波の事は知らされず、家にまた戻ってこられるのだろうと思っていました。

 そのまま中学校の3階に移動。遠くに目をこらすと、向こうに海水が。海から家までの距離はおよそ1.5キロ。家は大丈夫なのか…不安がよぎりました。しだいに暗くなり、その晩も余震が頻繁に続き、寂しさの中、ずっと一人でその場にいました。避難している間は手話ができる方がいらっしゃらないので、情報不足に悩まされました。

 翌朝5時頃、辺り一面海水が広がり、流れている家々の光景に愕然としました。たまらず家が心配で帰りたいと告げると、男性は手を十文字に表し、「ダメ」と…ショックでした。朝、聴者とバナナを分け合って食べました。

 その日、バスを待つ行列に私も加わりました。別の中学校に移動するためです。長時間、泥の道にバスを待つものすごい行列ができました。そして偶然にも娘、妹と再会を果たすことができたのです。私と娘はいつも一緒にいますが、震災時、娘は仕事のため離れた場所におり、私の事を心配してこちらに向かおうとしたのですが、津波で来ることができませんでした。

 3日後、娘と一緒に家を見に行きました。家は、スパッと切り取られたように跡形もなく、本当に何も無かったのです。大切にしていたろうあ協会の記念誌等の資料や写真、仏壇、16年間可愛がって育てた猫の写真やお墓も、全て失ってしまいました。

 5月から仮設住宅での生活にはなかなか適応できず、夏の猛暑は体にこたえ、体が悲鳴をあげているようです。これからは冬の冷え込みが心配です。

 いつか閖上が元通りになっても…私はあの地での生活には戻らないと思います。今回亡くなった方々を思うと、心が締めつけられます。私は今も前向きには考えられず、仮設での生活もなんとなく居心地が悪いというのが正直な気持ちです。

 行事などに参加したい気持ちはありますが、なかなかそれも叶わず、皆さんとは、しばらくお会いできていませんね。皆さん、ご心配をおかけして申し訳ない気持ちでいます。私は元気です。