『すぐさま飛んで行きたかった』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『すぐさま飛んで行きたかった』(2011/12/13掲載)

仙台市 Kさんさん

 私は10歳まで気仙沼市で生まれ育ちました。父と母は気仙沼市で生活しており、仙台にいる私は毎年お盆と正月には帰省していました。両親とは口話で会話が弾み、和やかな雰囲気でした…あの日までは。震災当日津波の情報はつかめず、親戚が亡くなったことも含め、後に新聞で知りました。数日後に岩沼市にいた義兄の訃報も聞きました。仙台市もものすごい揺れだったので、両親の安否が心配で不安な気持ちが重くのしかかってきました。

 約一週間後の3月17日、実の妹から妻へ電話が来ました。母と妹は無事。そして父は行方不明という知らせ。私の胸に突き刺さりました。妹宅は南気仙沼駅付近にあり、95歳という高齢の父と同居しており、母は少し離れた実家で生活していました。あの日、妹は午後から実家に行き、掃除や母の世話をしていました。とっさに母を連れて車で逃げ、渋滞に巻き込まれながらもなんとか無事だったということです。

 父が行方不明のまま時は過ぎ、4月頃DNA鑑定が必要との連絡を受け、気仙沼市へ向かうことになりました。しかし肝心の交通手段がなく困っているところを、救援宮城本部が支援物資搬送のため気仙沼方面に行くからと、快く同行を認めてくださったのです。本当にありがたく、頭が下がる思いでした。母、私、妹2人で検査に行き、口内粘膜の細胞を搾取する方法でかなりの時間を要しました。その後、現地で状況を確認すると、妹宅も実家も流され、亡くなった親戚もおり、父も依然行方不明。末の妹の家は、大型漁船が流されたJR鹿折唐桑駅付近の比較的高い場所にあり、難を逃れました。

 現在、母達は修理を終えた借家に、母、妹、甥の三人で生活しています。母の体調は震災以降、あまり思わしくありません。

 海とともにあった気仙沼で幼少期に兄と遊んだこと、鹿折小学校の思い出…懐かしい記憶が蘇ります。しかし、10月下旬、仙台支部の「津波を知る会」で行った気仙沼市を見ると、復興への道のりは遠いと感じています。

 父と最後に会ったのは、昨年1月。実は父の誕生日は3月9日で、その日はあいにく都合が悪く、父のもとに行けない代わりに、私は「誕生日おめでとう。どうか元気でいてくださいね」とFAXを送りました。父はもう字が書けず、妹から代わりに「ありがとう。元気です」と返信がきました。9日から気仙沼に行っていれば、父を助けられたかもしれないのに…と悔やんでなりません。未だ行方不明の父と、一日も早く再会したいのです。