『チリ地震教訓に とにかく逃げろ』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『チリ地震教訓に とにかく逃げろ』(2011/12/13掲載)

女川町 Kさんさん

 私は朝から11時までの仕事を終え、外出していました。その頃、家族は家でのんびり。長女は学校が休みで外出中、次女は中学校にいた時に、あの震災が起こったのです。地震直後、昨年2月のチリ地震が脳裏をよぎりました。私はすぐさま自宅へと自転車を走らせ、家族のもとへ戻り、皆に呼びかけました。「すぐに逃げろ!」

 女川町への最初の津波到達時間は3時20分頃。津波が来ると察知した私。妻はあわてました。私は人さえ無事でいればいいと思い、身一つで出ましたが、家族で避難している時に、妻は一人遅れていました。犬を抱きかかえ、大切なものをあれこれ取っていたためです。後ろを振り返ると、17m程の真っ黒な津波が。想像以上の波を間近で見てあわてました。距離にして100mあったでしょうか。私達は必死に走り、脇に逃げましたが、妻はまだ。もうダメか…と思いましたが、危機一髪のところで、妻は助かり、その横を大津波が猛スピードで通り過ぎました。

全てが流され 言葉もなく

 ほっとしたのも束の間、今度は高台へと逃げました。

 85歳の高齢の母をひっぱり上げて上へ上へと登っている最中、木の枝か何かが足に突然巻きつき、激痛が走りました。たちまち足は何倍にも腫れて膨れ上がり、歩くのもやっとの状態。私は足の痛みをこらえていました。義兄が母をおぶって登りました。

 私達が逃げた場所は、石浜というところです。上から見た津波はすさまじく、真っ黒な波は家や車、何もかもを巻き込んでいき、「もう…死んでもいい」とさえ思わせる光景でした。妻は、自分の家、学生時代の写真、子供の写真、理容免許証、理容鋏等、全てを奪われショックを受けていました。私も大切にしていた釣竿を流されてしまいました。

 とても寒く、食糧もないその場で一夜を過ごしたのです。特に母は寒さが体にこたえて大変でしたし、私も眠れませんでした。

翌朝の光景は地獄絵図

 翌朝、海水が徐々に引いてきて、私達は山を下りました。戻るのにはかなりの時間がか
かります。

 その途中の光景は…至るところに遺体が。車の中で亡くなった人や、うつ伏せに道路に横たわっている3~4歳と思われる女の子…。心が痛み、やりきれない思いで歩きました。

 足の状態が限界の私と、胃痛で具合が悪くなった母は、ヘリコプターで救助されました。

 その後、足の状態はというと、通院の甲斐あって3ヶ月で完治しました。

家族の無事に安堵 新しい生活へ

 長女は震災時、石巻にいて、3日程後に連絡がつきました。次女は中学校に避難しており翌日会うことができ、家族全員無事でした。しかし、子供達とこんな状況下で初めて離ればなれとなり、不安な日々が続き精神的にもつらかったですし、再会した時には涙がこぼれました。

 そして、黒川や石巻で生活を転々とした後、娘達の学校のため、女川に戻りました。

 本来であれば、仮設住宅入居も障害者優先であるはずが、一向に決まらず、私はいてもたってもいられなくなり、役場に交渉しました。その後連絡があり、6月から仮設住宅での生活がスタートしました。やはり色々と苦しい面がありますが、2年間ここで踏ん張り、頑張っていきたいと思います。

 地元では、私が耳が聴こえないということを知っている方が多くいます。周囲の人々は会うたびに話しかけてくれ、色々な情報を私に提供してくれています。

 そして、私のもとへ、度々ろう学校時代の同級生が訪れました。2~3年ぶりの友人もいれば、最高で15年ぶりに再会した友人も。嬉しさで胸がいっぱいになり、抱き合いました。1日中、時も忘れ、あの時に戻ったかのように話は尽きませんでした。

 津波で大切なものを失いましたが、家族の命が無事で本当に良かったです。これからも同級生と助け合って、生きていきたい、そう思っています。

 聴覚障害者救援中央本部、宮城本部からは自転車や布団など生活に必要な物資を頂きました。温かいご支援、本当にありがとうございました。