『最愛の夫は何処に』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『最愛の夫は何処に』(2011/08/16掲載)

南三陸町 Mさん

 「高さ10メートルの津波が予想されますので高台へ避難して下さい!」南三陸町役場危機管理課の職員である夫の必死の無線放送の声を聞きながら、勤務する町内の建設会社から大急ぎで自宅へ戻り、庭に車を止めるとすぐに庭まで波が押し寄せ、前の家まで流された。「夢だろうか」我が目を疑った。夫の声も跡絶え寂しく冷たい雪が降ってきた。あの光景を一生忘れることは無いであろう。

 避難所は人で溢れ、私はその夜寝ずに車中から夫へ何回も電話・メールをしたのに夫からの連絡は無かった。翌朝誰かが「志津川の町は役場をはじめ、全て流され何も無い」と言った。食事も喉を通らず、ガソリンも無く毛布にくるまって車の中で5日間過ごした。胸が張り裂ける程悲しかった。

 携帯電話が繋がる様になってすぐ、手話奉仕員養成講座で大変お世話になったS先生そして一緒に学んだ仲間達から安否確認のメールを頂いた。先生や仲間達の心遣いがとても嬉しかった。

 5月のある日曜日に交通事情も滞る中、先生や協会の方がわざわざ励ましにいらしてくださり、手話奉仕員養成講座に参加して本当に良かったと心から思った。講座に通いたいと言った私に夫は「人の為に役にたつのなら」と快諾してくれた。一昨年と昨年と仙台市福祉プラザで開催された宮城県手話研修会にも、忙しいところ送迎してくれた夫。

 毎日仕事を終え、車を走らせ20分。志津川まで夫の捜索に行く。4ヶ月になろうとしているのに手掛かりは無い。防災対策庁舎の前で、最後まで夫が町民に避難を呼び掛けていた姿を巡らし、早く帰って来てほしいと願う。命の尊さというものを改めて知った。

 町は復興に向けて歩み始めている。しかし私の気持ちはあの3月11日のままでいる。あの朝、母校歌津中学校野球部の朝練習のコーチに笑顔で出かけた夫の姿が忘れられずにいる。でも私以上に辛い思いを抱いている方が沢山いるのだ。前を向かなければと自分を奮い立たせる。

 そして、元気を取り戻して、またいつの日か、仲間達と手話を学べる日が来る事を楽しみにしている。きっと夫もどこかで応援してくれているであろうから。