『愛する孫が…』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『愛する孫が…』(2011/08/16掲載)

山元町 Hさん

 その日は、11時頃から友人と会い、2時過ぎに自転車で自宅へ帰るところでした。ふと見ると、電柱が揺れています。「変だな…」と思っていると、視界全てが急激に揺れだし、地面も激しくボコボコボコ!!と動きだしました。強い揺れで川の堤防も破壊されました。私はすぐに帰宅しました。

 その後、嫁に「(津波が来るから)早く2階へ!」と言われ、まだ幼い末っ子の孫を抱きかかえて、嫁、3歳の孫と私の4人で2階へ避難しました。私には3人の孫がいるのですが、一番目の孫が保育園に通っているのです。連絡が無いので、孫がどんな状況におかれているのか、心配でたまりませんでした。すると、向こうから黒く高い波がものすごい勢いで向かってきて、みるみるうちに、ありとあらゆるものをのみ込んでいきました。1階部分は津波にやられ、一面海水に囲まれました。その夜は、通信も跡絶え、2階の冷蔵庫の中に唯一残っていたチーズで空腹をしのぎ、うとうとするぐらいの状態で過ごしました。

 昨年チリ地震が発生し、心構えはあったはずですが、このような巨大津波が襲来するとは…また、家に到達するまでのあのスピードといったら…全く初めてのことです。津波が襲ってきた時、その情景の恐ろしさに私は震え上がりました。

 地震で情報が途絶えた孫が通う保育園は、避難の為に園児達を送迎バスに乗せました。一番目の孫は、保育園のバスに乗っていた午後3時半頃、津波に襲われ亡くなりました。3月18日、そのことを息子から嫁への電話で知り、ショックで胸が張り裂けそうでした。親戚にも訃報を伝えると、皆悲しみました。

 だんだんと大きくなるにつれ、幼いながらも手話を少しずつ覚え、私とやりとりをして通じるようになった孫…。保育園の送迎バスまで毎朝送っていった事…。縄跳びなど諦めずに頑張っていた孫の姿…。成長を楽しみにしていたのに…思い出しては寂しさで心が折れそうです。