『2階から呆然と見つめた大津波』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『2階から呆然と見つめた大津波』(2011/08/16掲載)

岩沼市 Sさん

 3月11日の大震災の何分間は、とても長く感じました。当時、私と夫は営んでいる理容店内におりました。大きな揺れで、2階の本が倒れているだろうと、夫と二人で2階に上がって片づけをしていました。夫がふと外を見ると、大きな津波が来るではありませんか。私たちの家と海は1キロ程、岩沼の高速までは3~4キロ離れています。地震から1時間程後のことです。大津波はものすごいスピードでこちらに襲いかかって来ます。ダンプ車も軽々と、泥も何もかもが流れ、荒々しくのみ込んでいく津波の凄さに、逃げずにただ呆然と2階から見ているしかありませんでした。家の回りが一面海でした。また、どこまで水かさが上がってくるのか・・・、貴重品なども脳裏をよぎり不安な気持ちになりました。夜7時頃には水位が下がりました。高速道路が寸断され、息子は帰宅できなくなりました。その夜、停電の中、2階に寝ました。寝たといってもうつらうつらする程度。寒さに耐えていました。食料を取りに理容店の隣の自宅へ行こうと思いましたが、水は少し引いたものの、地面は歩けるような状態ではなく、流木や板の上を歩く始末。水で衣類が濡れ寒くなり、海水の独特の臭いがしました。自宅の2階でその日は一日過ごしました。

警察が身振り手振りで 避難所行き余儀なく

 翌朝は水が引きました。警察が来て、二人は耳が聞こえないので、警察から身振り手振りで「ここにいるのはダメです」と言われ、必要な物をまとめて玉浦小学校の避難所へ二人で向かいました。2日後、他の人からここも危険なので岩沼市の避難所に行くよう言われました。
 3月15日から一週間程、食料や水を少し頂いて何とかしのいでいましたが、やはり避難所は集団生活なので風邪が流行り、私の夫も具合が悪くなりました。その後、近所の人々も各々避難所を出ていくので、私達も移動することに決め、姉の家に4日程滞在しました。

元通りへの道 掃除に追われる毎日

 帰宅できたときには、辺りはガレキの山で、夫と息子と私の車3台が海水にやられ、使えなくなりました。私の車は2月に購入したばかりの新車でした。1ヶ月間は、息子は通勤にタクシーを、夫は移動に自転車を使っていました。3日間泥掃除に追われ、肩や腰に疲れがきました。理容店内のはさみ等全て使えなくなり全部処分しました。完全にきれいになるまでは時間がかかりました。理容店内には津波が流れ込みましたが、自宅の方は窓を閉めていて危機一髪、被害はありませんでした。4月も同様に掃除に追われ、仕事も無いので手持ちぶさたの状態でした。

理容店 三か月ぶり 営業再開

 5月下旬、理容組合長がいらっしゃって、何か欲しいものはないかとのこと。店を再開するにあたり、必要な物を理容組合に申し入れ、理容店をやめた所から不要になった椅子などを頂きました。そのおかげで6月に店を再開することができました。県内の理容200店程が被害にあった等の情報は、理容組合からでした。

情報が欲しい・・・手話通訳がいないのはなぜ

 今回の大震災では、情報の足りなさを実感しました。消防車が来ても何がなんだか分からないままでした。避難所では、市からの説明は音声で、私達は耳が聞こえないので分かりません。地域の方に簡単なメモ程度の筆談で教えてもらい、だいたいわかる程度です。また手話通訳は時々会えますが、常駐ではありませんでした。

生涯初の津波を経験

 私の夫は岩沼で生まれ育ちましたが、生まれた家は津波の被害に遭いました。
 私の夫は、今回の大津波は生まれて初めての経験です。私は、2階から見たあの大津波が、悪魔のように見えました。