『あれは黒い雲…?「大津波」だった!』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『あれは黒い雲…?「大津波」だった!』(2011/07/01掲載)

名取市 Wさん

 3月11日(金)、自宅で寛いでいた時に突然、下から突き上げられるような強い揺れ。午後2時46分頃、三陸沖を震源とするM9.0の地震が発生。長時間でした。家は倒壊を免れましたが、物がたくさん落ちました。しかし、津波が来るとは思ってもみませんでした。近所の手助けは殆どなく、助けが欲しいとは感じつつも、情報がないので、片付けを続けていました。実家から来た兄に、怒ったような口調で津波が来るから非難するよう急がされ、兄と一緒に私と妻、総勢5名で避難。道路にはブロック塀が崩れ落ち、ガタガタの道を乗り越えながら進みました。ふと見ると、500m付近の位置に10~20m程の黒い雲…いえ、雲ではなく、黒い「大津波」だったのです。車で先を急ぐと、避難所となっていた中学校は人であふれ、付近の道路は渋滞。そこで狭い道を通り名取川の上の仙台東部道路の方へ。私は小高い場所から、津波で流されている家や車、人を不安な気持ちで見つめていました。二度目の津波は時速50キロ程のスピード。息子と兄のおかげで私は助かりましたが、津波の情報が無かったら、今の私の元気な姿は無かったかもしれません。この地で育ち70年来、津波に遭遇したのは初めてです。

愛する孫と離ればなれ

 私には小3の孫がいます。その様子を見に息子が小学校へ行きましたが、連れて帰ることが出来ず、孫は3日間学校で過ごすことに。校舎の3階まで津波が押しよせ、寒がる孫に袋を切って被れるようにして着せました。ようやく3日後に食糧を積んだヘリが来ました。私の家族は幸い無事でしたが、孫は離れた場所に居てかわいそうで心配でなりませんでした。

設置通訳おらず不満

 問題は、通信が途絶え、食糧不足、そして設置通訳が不在ということも…。私は4~5日間、名取市役所に足を運んだのですが、通訳がおらず、筆談でやりとりするしかありませんでした。10日後やっと通訳を頼むことができました。車、貴重品、衣類等の全てが津波によって流されたので、その届け出を済ませました。名取市のろう者に対する情報保障の支援体制が無いことについては疑問です。あの緊急時に、ろう者がいたら呼びかけて避難させるということもありませんでした。ろう者は排除されているのか…そう思いました。今後この件に関しては、市の方へ出向いて伝えようと考えています。元通りの生活、いち早い復興を切に願っています。