Sさんから現地被災者からの経験レポート



Sさんより現地被災者からの下記の経験レポートをお寄せいただきました。

~3月11日に起きた東北関東大震災の被災レポート~
S・K

 
開発してほしいと思ったもの
○携帯できる非常用持ち出しセット
○キングジムの小型用boogieboard(A4サイズだとポケットにいれられない、キングジムのboogieboardは薄暗いところならなんとかみえる。真っ暗では使えない)使いたい場合は、前もって確認してから使用
 
○どこでも通じる携帯電波(途中からソフトバンクは何故か通じなかった)
 ツイッターよりメールが便利。圏外のときは問題。
 
○震災のときお願いできる手帳
 
○いつも持つべきものとおもったもの
 小型もしくは携帯用のペンライト(携帯のスラップとして)
 
3/11
 
 所用があって、仙台に行く。3人で某事業のための作業をしていた。
午後2時半過ぎに、揺れを感じる。はじめはゆっくりのような、突然大きく揺れる。揺れが長く大きい。立っていられないが、なんとか立てた。おさまったあと非常階段をおりて、外へ。何度も余震が起きる。グランドに避難。
電気/ガス/水道すべてとまっている。ライフラインがストップ!!
iphoneはなんとかツイッターができる。SMS、MMSは通じない。
宮崎にいる夫にSMSを送るが届いたかどうか不明。ツイッターで「M大学でMさんと一緒にいるが、地震にあってショック。とりあえず怪我なし。みんな大丈夫」(3/11 15:30)と報告する。
 
停電になったときTVはカーナビか、携帯ワンセグが必要になる。
そのワンセグも電波が届くかどうかによって使えなくなるが…
仙台駅に向かう。
途中、アンケードを歩いていると、ビルの装飾がおちたり、ビルの壁の一部がはがれ落ちたりしていて、歩けない通路があった。
 
駅にいくと、駅の中に入れない状況。スーツケースをかかえているサラリーマンたちが駅員さんになにか言っている。駅員さんが何かいって指差していて、指差した方角に、サラリーマンさんたちがスーツケースをかかえて歩き出す。駅員さんがいったことにおとなしくしたがっているよう。
「耳が聞こえないんですけど、何ですか?」とメモを駅員さんに見せたが駅員さんは何か言って指差している。みんな、指差す方向に歩いているから、とりあえず、私もついていってみよう。そしたら、駅前Mホテル仙台だった。ロビーに入る。暗い。そしたら、ロビーにたくさんの人たちがサゴ寝している。。。。
トイレにも並ぶとあまりにも暗い。懐中電灯をスタッフがもって照らしてくれる。
フロントに行ってメモを取り出して
「耳が聞こえません。駅員さんがここを指差していたんですけど、朝までいてもいいんですか?」と書く。「はい、大丈夫でございます!」と書いてくれる。そのことばに震災でも接客プロの根性を感じた!!
で、毛布はどこで貰えばいいのだろうか?とりあえず、階段のところに座る。
 
18時になる。暗いのであるくときには、携帯の画面の光をたよりに歩く。
携帯の電波が悪く、圏外になってしまう。
携帯SMS,MMSが通じない。やっと携帯Eメールが通じるようなので、夫のパソコンに試しに送ってみる。ツイッター登録してということと交通事情を調べて、と携帯Eメール送る。その直後に圏外になってしまった。
 
ホテルの外に行ってみたが、圏外に。
地下でもないし・・・
何度もホテルの外に出る。でも圏外のまま。
どうしたんだろう?ツイッターできない。メールもできない。
状況どうやってつかめばいい???
 
懐中電灯があっちこっちにおかれてあるが、やはり暗い。
ろう者にとってはますます不安になってしまう。
ああ、ブギーボード(暗闇でもできる筆談ボード)持ってくれば良かった!!
私はパソコンをもってきていたので、パソコンを開く。
 
バッテリー時間、大丈夫やー。
 
21時過ぎに、突然、ホテルのスタッフがアナウンスをし、
懐中電灯を照らした。
みんなが一斉に移動し始めた。
「???」
懐中電灯を振り回しているホテルのスタッフ(ちょっとしたおじさん?)に「耳が聞こえませんが、何があるのですか?」と書いたメモをみせる。でも口で何か言っている。ゆっくり、と言っても、全然口が見えない。
ダメだ、こりゃ。
 
訳分からないけど、ついていこう、だめだったらもどればいい。
みんなのあとをついていく。階段を下りていくようだ。
地下に移動していく。ちょっとあるいたなあと思ったら、
明るくなっていた。ああ、光がある!ほっとした。
広場があって、段ボールがたくさん敷かれてあった。ホテルのスタッフが段ボールをあつめて敷いてくれた。毛布もあった。
 
近くにコンセントがあるので試しに携帯の充電器を差し込んでみるがダメだった。エネループの充電用電池につなげる。携帯の電源も切る。
22:00ごろ、ホテルのスタッフがきて水とパン、クッキーなどを配りにきた。
 
グレーの公衆電話があって、みんな並んでいる。
災害用伝言ダイヤルなのね。で、ろう者はどうやってやるんだ?
携帯も圏外だし。
 
とにかく寝よう。
ダメだ。眠れない。しょうがないからちょっとだけパソコンでデータ入力をする。30分ほどやったら眠くなってきた。寝よう。
 
3/12
 
途中で寝返りを何度も打つ。
トイレに行く。水が出ないので顔が洗えない。
 
ホテルのスタッフが新聞を配り始める。
新聞を受け取って読んでみると、
あまりの被害さに愕然。そんなにひどかったの?
知らなかった・・・(ここで、情報の差を知った)
  
じゃあ、東京に帰れないの???
 
7時過ぎに、ホテルスタッフがみんなに何か言っている。
周りにいる人たちが次から次へと立ち上がって荷物を片付けている。
新幹線が復旧?と思っていると毛布にくるまって残っている人も。
私は??と思って、メモに書いて、ホテルスタッフのやさしそうなお兄さんがとおりかかったときにメモを見せる。
「すみませんが、耳が聞こえません、周りの様子が分かりません。しんかんせんの方はどうなりましたか?」(メモ)
 
お兄さんスタッフは「はい、しんかんせんのふっきゅうはメドがたっていない。高速バスもまだ。ひなんじょがあります。近くまで案内します。ひなんじょにいたら交通情報も入るので、ごはんもある」と書いた。
 
そこで、お兄さんスタッフのあとについてホテルの外にでる。
お兄さんスタッフが地図と、小さな紙とペンも渡してくれて「よび」とメモする。地図を見せて「まっすぐいけばA小学校」と身振りで説明する。「みんなのあとをついていって」と書いてくれた。「ありがとうございます」と手話でかえし、みんなのあとをついて歩いていく。
地図をもって、A小学校へ。
体育館の中に入る。とりあえず舞台の本部のようなところに行ってみる。
名前と住所をかく。
舞台の上にいる人にメモをみせて「耳が聞こえません。東京からきました。何かあるのか教えてください」。
舞台の上にいるスタッフ数人が顔を見合わせて何か話し合って
「新幹線はまだメドがつかない。高速道路はどうなんだろう?」と書く。
「どこにいけば情報が分かりますか?ケータイが圏外なので」(メモ)
「ここにいて下さい。ここが一番です。ここ(舞台の上)で楽して下さい」(メモ)と書かれ、舞台の上にある敷き布団の上に案内される。
 
ちょっとほっとする。本部の中のようだから情報が入るかな?
 
メモで対応してくれたスタッフが、「保健師」と言う。
保健師スタッフがアナウンスがあった紙(原稿と思う)をみせてくれる。
 
「もうすぐ配給がきます」(保健師スタッフのメモ)
「ごはんの配給始まりました。私がもらってきますが、今は混み合っていますので少しお待ちください」(保健師スタッフのメモ)
 
あいかわらず携帯が圏外。
 
避難所の外に出て、電波が届く所を探してみる。10分後アンテナが立つ。
メールは通じない。ツイッターならできる!!!
 
12時半ごろ避難所に電気が通ったようで、天井のライトが付く。
すぐにコンセントに携帯のコードを差し込んで充電する。ツイッター、SMS、MMS、携帯Eメールもできた。でもウエブ検索ができない。
夫にSMSして、バスを調べてほしいとお願いする。
ともかく携帯が圏外脱出のようで、ほっとして涙が出る。
「やっと携帯の電波がつながる。避難所で待機している。交通情報がつかめない。新幹線無理でも普通電車やバスで帰りたい。寒くて熱出そう」ツイッターで報告をする。
 
遠くにスケッチブックをもって周りに見せながら歩き回っている人がいる。
保健師スタッフが、その人と私を会わせてくれる。
その人が持っていたスケッチブックに「耳の聞こえない人いませんか?」と書かれてあった。
その人(聴者)が私の前に座って手話で「困っていることない?」と聞く。
「東京から来た。交通情報が知りたい。」と手話でいうと、
「2?3日新幹線は無理だろうのこと」と返事。
「アナウンスとかコミュニケーションとかは?」と聞かれ、「今は、保健師スタッフがメモで書いてくれる」と手話で説明しながら、保健師スタッフが書いてくれたメモをみせた。
メールアドレスを教えてもらい、手話ができる聴者は舞台からおりていった。通訳者なのか、手話サークルのメンバーなのかは知らないが、ほんとうにほっとした。
家族(妹、母)からも連絡があった。ただし、妹、母がメールを送ったのは3/11の夕方あたりだった。それが今頃届くとは。
 
保健師スタッフさんから「水道も出るようになりましたよ」とメモをもらう。
よかったね、と拍手する。
 
さっきの、手話の聴者がきて、毛布をもってきてくれた。
3/12 15:00以降、携帯がまた圏外になる。泣きたくなる。
 
携帯のワンセグ(私のiphone用にはそういうのをまだ買っていなかったので)があれば・・・と思ったり、パソコンを持っているが、パソコンにつけるUSBのワンセグを家においてきたことなど、あれこれと持ってくれば良かったと後悔する。
 
そして、携帯が圏外になってしまったので、電波って軟弱・・・と思う。
地震のときでも圏外にならない電波がほしいと思ったり。
 
19時頃、みんなが騒ぐ。アナウンスがあったが何かわからない。
補聴器にはいろいろな音が入っているが、アナウンスなのか、人の声なのか、足音なのか、ものが動いた音なのかさっぱりわからない。
どうやら、食事がくばられてるよう。みんなが次から次へとご飯をもっている。
舞台の上にいたので、みんなの様子が見えたことが幸いだった。
 
別の行列もあるようで、なにかコップみたいなのを抱えているので、何だろうと思って、お昼に貰った紙コップをもって並んでみる。私の出番になったときにみそ汁と分かった。それを舞台の上に持ち帰って、隣に座っている視覚障害者の方に渡す。
 
本部に何人かスタッフがもどってきたようなので、
「耳が聞こえませんので、アナウンスなどはメモ下さい。何か情報あれば書いて下さい」とメモをみせると、「大丈夫」と言われる。
 
マイクの機械?のようなものがもちこまれたようで、誰かがマイクもって話している。
 
周りの人に「何ですか?」と聞いてみると「大丈夫」と。
気がついたら、舞台の上にラジオがある。
 
「何か情報あります?」とラジオの内容を聞こうとしたら「うん、まってね」と、それっきり。
 
自力で情報収集しないと、と思い、携帯が圏外なので
明日は直接駅に行って聞いてこようと思う。
 
本部にある机の上にパンフレットがあることに気づいて
ちょっとみてみたら、
外国人サポートに関するパンフレットだった。英語、中国語、韓国語などによるサポートが受けられる電話番号などの案内。
えーっと、障害者やろう者のためのサポートのパンフレットないの?
 
3/13
 
 3/13の朝3時ごろ、アンテナが3本立っていることに気づく。
 
とたんにメールがドッとくる。3/12に送ってくれたものばかり。
夫、父からメールがくる。ツイッターで職場の先輩たちや友人たちがいろいろな交通情報を送ってくれる。
 
なんか向こうにみんなが集まっているようなので、何かあるのかな?アナウンスがあったのかな?と思って行ってみると、携帯を充電するために集まっていたようだった。
 
壁とかに様々な情報の紙をはってくれたらいいのに、と思ったりする。
 
Mさんと連絡が取れ、山形に行くメドがついたので、夫や父に連絡する。
 
ようやく、12時前になって、携帯のメールがほとんど通じるようになってきた。ホントにツイッターがなかったらほんとうに無理だったと思う。
ツイッターが通じてメールが通じないのもおかしい。
 
同時に、情報リテラシーってむずかしいと。
携帯が使えない高齢ろう者、ろう者たちはどうするんだろう・・・
「書いて下さい」とお願いしても「ああ、分かった」と言われたり、めんどくさそうに対応されたりひどいように扱われたりすることが積み重なると、
自分から行動を起こす力を奪われてしまう。
そういった現状にいたったのは、ろう、難聴、聴覚障害者自身ではないということを、どこまで社会は分かっているのだろうか。社会はそんなことはないというが、現実をどこまで分かっているのだろうか。
 
12時過ぎにMさんと合流。Mさん夫婦と一緒に山形に向かう。
 
山形から新潟までのバスがあるセンターまで行き、切符の予約をする。
16日の切符しかとれず。新潟までバスでいって、新潟から東京まで上越新幹線という方法もあるので、とりあえず、16日のバスのルートはおさえた。あとは飛行機で帰る方法を確保するだけだ。職場の先輩たちや妹に協力をもらって飛行機の情報をもらう。そして、携帯で航空券の確保に集中し、15日東京に戻る航空券を確保できた。
 
3/14
 
 昨日、寝るときに気づいた。やっと補聴器と,メガネを外せたことに。11日夜、12日夜、ずっと補聴器やメガネを外さずに寝ていたことに。
(どれだけ自分が情報を得られなかった、音声情報の内容が分からないことの不安がどれだけ大きかったか、だから補聴器をつけて寝ていたんだ・・・と)
Mさんがインターネット、携帯などを酷使してろう協会と連絡取り合いながら、地元の聴覚障害者もしくは自分の大学の学生たちの安否確認および安否情報発信作業を行っている。
 
3/15
 
 飛行機に乗って、飛行機の窓から東京が見えてくるとホッとするとともに、震災の悲惨さを痛感する。
 
2011.3.18寄稿

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