『震災の情報は全てこの「目」で』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『震災の情報は全てこの「目」で』(2011/12/13掲載)

気仙沼市 Sさん

 3月11日、私は朝からのわかめ漁業の仕事を終え、昼に帰宅し、疲れたので昼寝をしていました。そして、あの2時46分、大きな揺れで目が覚めました。その揺れはとてもとても長く、部屋の中のありとあらゆるものが倒れ落ちました。そしてすぐに停電。実は、東日本大震災の数日前、気仙沼市役所主催による、聴覚障害者のための防災対策の講演が行われていたのです。その心構えの甲斐あってか、わたしはとっさに貴重品、携帯、ビデオなどの荷物をまとめ、家にいては危ないと思い、避難の準備を始めました。すると90歳の私の父が、私に身振りで川を見に行くように言いました。

 自転車で、家から程近い川を見に行ったところ、特に何も変化がない様子に私は「おかしいな…」と思っていました。その時、隣近所の方が、6m級の津波がくるから早く逃げるよう身振りで私に言うのです。海の方に目をこらすと波が見え、私はあわてて家に戻りました。

渦を巻く真っ黒な津波

 帰宅すると、家の外に父がいました。津波が来ても低く、たいしたものではないだろうと思っていた父を、なんとか連れ出し、高台へ急ぎました。海水が徐々にヒタヒタと地面を這うように迫ってきます。階段などもない高台への道で、父を引っ張り上げ、上に着きました。

 他の家族は先に高台へ避難しており、5人全員無事でした。地震発生後30分程経過した頃、あの大津波が来襲。真っ黒なその波は、すべてをのみ込み、渦を巻き、私の家の1階部分をも荒々しく壊していきました。その光景を目にし、本当にショックでした…。

レンズ越しに見た現実

 津波の凄さを目の当たりにした近所の方々も呆然とした表情でした。はっと気づいた時は遅かったのですが、私はビデオカメラを取り出し、小刻みに震える手で、大津波の状況を途中から撮影しました。レンズを通して、ビルの屋上などに人々が避難している様子が分かりました。

 撮影し始めてから10分程経過した頃、海水が次第に引いてきて、流されたものが至る所に現れました。何気なしに撮影した映像の中には、泥などで全身真っ黒になり、女性か男性かもわからない息絶えた人の姿も…。周囲でその事に気づいた人も、驚きで顔をこわばらせていました。午後6時頃、大規模火災が発生。もくもくと煙が上がり、停電で真っ暗な夜の中で、真っ赤に燃えあがる炎だけがはっきりと浮かび上がりました。

 雪が降りしきる中、私は、そこから近いいとこの家に向かい、泊らせてもらいました。次の日の朝、昨日の場所へ戻ると、その光景に愕然としました。すべてが流され、壊され、何も無いのです。赤岩舘森から海は遠いのですが、川が近いので、津波が川を遡上、氾濫し、大被害に繋がったのです。その後、私は避難所には行かず、何度かいとこの家に泊まらせてもらいました。

 5月には仮設住宅の抽選に当たり、新たな生活が始まりました。これで安心して生活できると思う反面、なかなか慣れず、心の奥底では我が家に戻りたいという気持ちです。仮設住宅での生活は2年間。精神的にも疲れます。しかし、救援中央本部はじめ宮城本部からさまざまな支援物資を頂き、本当に感謝しております。また、6月に宮城本部主催の癒しツアーで鳴子温泉に行った際、木村晴美さんとはじめてお会いしました。震災のことを一時でも忘れて、神経質になっていた心がほぐれ、楽しむことができました。


重油に引火し大規模火災が発生。一帯が火の海に。(Sさん撮影)