『津波が後方に危機一髪』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『津波が後方に危機一髪』(2011/08/16掲載)

岩沼市 Kさん

 3月11日、午後2時46分、今までにない強烈な揺れで、恐ろしさで思わず泣いてしまいました。地震発生時、私は夫と家にいました。揺れで物が倒れ、その片づけに追われていると、ドンドンドン!!と戸を激しくノックする隣近所の男性の姿に気づきました。その聴者に口型で「つなみ!」と言われました。夫は津波が迫る中、瞬時にあらゆる貴重品を見つけ出して、その貴重品だけを持って、聴者の車に乗り込みました。後方に目をやると、なんと黒く荒々しい波がものすごいスピードでこちらに迫ってくるではありませんか。車はその波に追いかけられるように走りました。間一髪のところで波にのまれずにすみましたが、車を持っていない私達が徒歩で逃げていたとしたら、確実に波にさらわれていました。命が助かったのは近隣の聴者のおかげです。

 避難所となっていた玉浦小学校に着きました。私は自宅が津波に襲われて崩れ去る様子をただ見ているしかありませんでした。海から約1キロ程離れている場所です。その日はとても寒かったです。おにぎりの配給がありました。そこで3日間過ごしました。

 3月14日、岩沼市総合体育館へ移るよう促され、移動しました。手話通訳はおらず、聴者とは口と筆談でやりとりしました。集合するよう指示があり、配給を受けました。

 昔の思い出を綴ったアルバムなどが流され、心が痛みます。しばらくして自宅を見に行った時には、津波は2階までのみこみ、家ごとさらっていったので殆ど何も残っていませんが、唯一、花瓶を見つけ出すことが出来ました。

 5月13日に、仮設住宅に入居しました。選ばれて嬉しく思いましたが、自分の家が欲しい…寂しさが募り、それが正直な気持ちで、やはり生活の不安は拭えません。連日の猛暑は体にこたえ、地震の時転倒した際に痛めた右ひざが今も痛みます。しかし、全日ろう連、宮城県ろうあ協会からさまざまな不足品を支援して頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

 災害発生時、小学校に避難することは知らなかったので、そういった情報保障や、何かの申請等での手話通訳の常時性の大切さを改めて感じます。

 5月3日、全日ろう連の石野富志三郎理事長とお会いすることが出来、とてもうれしく思います。わざわざ遠い所にお越し頂いて、私たちの事を色々と気にかけてくださいました。そういった温かい被災地への支援に応えるべく、私もがんばっていこうと思います。