【盲ろう者の被災体験】神奈川盲ろう者ゆりの会「ゆりメール2011年11月号《メール版》」掲載の震災体験講演会報告



【盲ろう者の被災体験】
 神奈川盲ろう者ゆりの会「ゆりメール2011年11月号《メール版》」に掲載された震災を体験した盲ろう者の講演の報告をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同会の許諾を得ています。)

 

 
<以下、メール本文より一部抜粋>
 
【1】 震災体験講演会に参加して
■日時:平成23年9月4日(日)13時30分~15時30分
■場所:埼玉県障害者交流センター
■参加:107名(内 盲ろう者30名)
 
座間市 堀江昭一(ほりえ しょういち・弱視ろう)
 
9月4日(日)埼玉盲ろう者友の会では、平成23年度埼玉県障害者
社会参加推進事業(県委託事業)として、震災体験講演会が開催され参
加して来ましたので、ぜひ、皆様にも参考に読んでいただきたいと思い
掲載しました。
 
3月11日、東日本大震災が起きました。東北から関東北部に、今ま
でにない被害をもたらしました。亡くなられた方々の中に盲ろう者、通
訳・介助員の方々もおられます。心よりご冥福をお祈り申し上げますと
ともに、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。一日も早い
復興を心よりお祈り申し上げます。
 
この日は、さいたま新都心駅よりシャトルバスにて約10分程の所に
ある埼玉県障害者交流センターで、午後1時半から午後3時半まで、講
師に早坂洋子さん(みやぎ盲ろう児・者友の会会長)を迎え、主催は、
埼玉県障害者社会参加推進センターで開催されました。埼玉はもとより、
東京、千葉、神奈川、群馬、長野、奈良の遠くからも参加者があり、関
心の深さを感じました。参加者は107名。そのうちの盲ろう者は30
名。司会進行でスタートし、東日本大震災で亡くなられた方々に対して、
黙とうを捧げました。会長挨拶の後、早坂さんの講演がスタートしまし
た。講演内容は、大震災発生から、帰宅までの流れや自宅の様子などの
大震災を直接、体験した当事者の気持ちが伝わる講演会でした。
 
<講演の内容>
早坂さんの自己紹介から始まった。2002年盲ろう児・者と歩む会
準備会がスタート。友の会設立当初より会長を務める。筆記、パソコン
と簡単な手話がコミュニケーション手段。
 
震災は広範囲で大きな被害となった。宮城(盲ろう者1人)、岩手(通
訳・介助員2人)死亡、宮城県は全壊が7万軒。我が家は、沿岸部では
ない為、津波の被害はなかった。地震の正式な名前「東北地方太平洋沖
地震」。3月11日午後2時46分、震源地三陸沖M9.0観測史上最大
で1000年に一度の大地震。
 
地震の時、仙台駅にいた。通訳介助員と買い物中、連絡通路(駅2
階)の上はいつも電車の音や振動があるので地震に気づかなかった。通
訳・介助員の話によると、揺れを感じる10~15秒前に音が聞こえた。
大男がドタバタ、ダダッ・・、ドドッ・・と走っているようだった。和
太鼓を叩くような音がした。地震は、初期微動、あとに主要動がある。
気が付いた時は、主要動(大きな揺れ)だった。通訳・介助員は、安全
確保が必要と思い、建物の手すりに誘導した。1回目の揺れが収まり、
安全な場所に移った。横揺れが長く停電、天井が落ちる心配があるので、
ペデストリアンデッキ(広場)に皆出てきた。通訳・介助員は冷静だっ
た。通訳・介助員のご主人から電話があり安否確認できた。私の両親は
難聴・高齢なため心配だったが電話はできなかった。親戚にメールして、
 
「両親は大丈夫、家の中はグチャグチャ」と返事があった。携帯は充電
できないため通じなくなった。電気が通じた時、携帯を見るとたくさん
のメールがあり皆が心配してくれた。家に帰る時、バスはない代わりに
タクシーを待ったが来ない。1時間くらい歩いた。家の近くは車の渋滞、
帰宅する人ではなく海から逃げてきた人たちの車だった。西に広瀬川が
あり、海から逆流して流れ込んできた。家は半壊、遠くから見たときは
大丈夫と思ったが、中はサッシがずれて動かない、玄関の扉は途中で動
かない、屋根の瓦も落ちていた。「足の踏み場もない」状態。冷蔵庫は倒
れなかったが30センチくらい移動していて元に戻らない。物が吹っ飛
んだ感じだった。ライフラインは、広範囲で停電(我が家は15日朝復
旧した)水道は温水器が壊れ10日間お風呂に入れなかった。都市ガス
は全てストップ。仙台全域復旧に1ヶ月かかったので、お風呂に1カ月
は入れなかった人もいた。銭湯は整理券で長時間待って入った。親戚の
家に11日から15日までいた。昼間は片づけに帰り、石油ストーブで
暖をとった。おにぎりを作ろうと思ったが梅干しがなくて作れなかった
が、おばちゃんが作ってくれた。今は冷蔵庫にたくさん梅干しがある。
友達からいろいろ送ってもらった。近くのスーパーは12日朝から営業、
長蛇の列、キャベツ500円、品物は散乱した中から出して売っていた。
我が家は、いつも買い置きをしている、父が野菜を作っている(とろろ
芋を掘ったばかり)、石油も9日に買ったばかりなど、すぐに買い物は必
要なかった。「何回も地震があると大きな地震が来る」と、33年前の宮
城県沖地震の経験をした母はいつも言っていた。仙台のダイエーは13
日からで2000人の列。6時間並んだ人もいる。小さな商店の方が混
んでいないので買えることがあった。自転車を使う人が多かった。盲ろ
う者で情報がなく、大津波が来た事は分からなかった。給水も分からな
かったが隣の人が教えてくれた。やはり不安だった。お知らせランプが
壊れて、来訪者が来ても家に居たのにわからないまま、不在票が入って
いたが、連絡してくださいとあったが電話番号だけ。教訓として、近所
の人とのつながりが大切。自分の事を知ってもらう。行事に参加して家
族と共に避難所の場所など確認しておく。地域・町内会の人と良い関係
を作っておく。
 
 
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