『あの場所で海と生きたい』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『あの場所で海と生きたい』(2011/12/13掲載)

仙台市 Sさん

 現在はアパートに入っていますが、生活にはまだ慣れずにいます。

 いつも朝に窓を開けると、隣りのアパート…見えるはずの美しい海が見えない…日差しが建物で遮断され、薄暗いのです。半年前、仙台市若林区荒浜地域に住んでいた頃、窓を開けると目の前には美しい海が広がっていたことが思い出されます。仙台市で唯一の深沼海水浴場、夏にはたくさんの海水浴客でにぎわっていたこと、休みの日には、釣りに行ったり、海で泳いだり、夏は毎日涼しい海風の中、生活していました。

「向こう、だめだった」

 思い起こせば大震災が起こった3月11日、仙台市は晴天でした。白くきれいな砂浜、美しく穏やかな海でした。

 この日、仕事が休みなので午前11時にバスに乗り、仙台市中心部へ。病院へ行き、診療・マッサージを済ませ、午後2時、友人のところでおしゃべりしていると、突然の大地震。いつもと違うこの尋常ではない状況に、外へ飛び出しました。「私の家は大丈夫だろうか」。その心配とはうらはらに、バス停内は大混雑で帰れず、夕方友人のところ
に戻ってから借りた自転車で1時間半程かけて帰宅しました。

 途中、向こうの田んぼの周りに車やガレキが散乱しており、黒い泥のようで、「ごみ処理場のようだな、何かあったのか…?」と思いつつも、横目で通り過ぎ、高速(東部道路)の所まで行きました。すると、警察官が何か話してくるので、身体障害者手帳を手渡すと、「向こう、ダメだった」と身振りで伝えてきます。荒浜地区まで自転車で10分程なのですが、「ダメなのか…何があったのか」と心配で心配でたまりませんでした。

筆談で伝えられたこと

 私は情報を把握できず、どうすればいいのか、どこへ行けばいいのかと迷いましたが、七郷小学校にまわってみました。

 そこで近所の方々を見つけました。無事に会えたことを喜び合いましたが、筆談で伝えてきたこととは…。

 「家×」…私はこの筆談で津波だと分かり、さっきまで家の事を考えていた頭の中が、ショックで真っ白になりました。

 しだいに夜になり、食糧、布団も無く、寒さで打ち震え、くじけそうになりました。

心の奥の奥で海を想う

 しばらくして3日後に荒浜地区に入っていくことができましたが、その景色は以前とは一変。津波で破壊された私の家、ひどい光景で全体が海のようでした。まさに戦争の跡地のようで、今まで津波の経験が無かった近所の方々の死…悔しさと悲しさとが入り混じったなんとも言葉にできない感情でした。

 避難所を二ヵ所移り、その後7月に仮住宅アパートに入居しました。震災から半年が過ぎましたが、生活にはまだ慣れません。

 本音を言えば…皆から「頑張って」とよく言われましたが、私にはまだ苦しさが心に残っており、その言葉が重くのしかかります。そして、「復興」という言葉。復興はいつ
なのでしょう。長い年月を要すのでしょうね…。

 私はただ、静かな海が心から好きなのです。以前と変わらない、あの穏やかな美しい海と共に、あの場所で、私は生きたいのです。

 最後に、聴覚障害者救援中央本部、宮城本部、そして仙台市聴覚障害者協会の方々からのご支援、心より感謝しております。