『帰って来て 待っているから』



 社団法人宮城県ろうあ協会機関紙「聴障宮城」に掲載された実際に地震・津波にあわれた方々の体験談をご紹介します。ぜひお読みください。(文章は原文のままです。掲載につきましては同協会の許諾を得ています。)

『帰って来て 待っているから』(2011/12/13掲載)

Mさん

 東日本大震災から半年以上経ちましたが、未だ気持ちの整理はできていません。夫が帰ってくるのを今も信じています。

 3月11日、午前中に手話サークルに行き、昼食は皆一緒にとりました。おしゃべりに夢中で、気がつくと午後2時半。美容院の予約を入れていたのであわてました。聴者にお願いして美容院に予約の時間を午後3時に変更し、車で向かいました。美容院に着き、お手洗いに行った後、あの長く大きな揺れ。足が震え、とても立っていられる状態ではありませんでした。店員に帰るように促され、大渋滞の中、やっとのことで午後3時半、帰宅しました。するとどうでしょう。人一人いません。夫もおらず、避難所へ行ったのだろうと思いました。私は家の中の片づけを始めました。窓の向こうに目をやると、遠くの方に水のようなものが。ものすごいスピードでその海水は襲ってきました。津波が到達したのは4時頃です。窓は割れ、水はザザーッと一気に私の腰の位置まできました。けがはありませんでしたが、その海水は油を含んで異臭を放ち、体中ベトベトに。携帯電話は水に濡れ、使えなくなってしまいました。なんとか2階へ上がり、海を見ていました。そこで3日間、待ち続けたのです。食糧は無かったのですが、偶然にも2階に置いてあった段ボールの中に水があり、それでしのぎました。助けも無く、1階にも行けず、ただ待つだけ…。夜は港の方で火災があり、こちらにも被害が及ぶのではと心配しながら、「夫はどうしているだろうか、別の避難所に行っているはず。後できっと会える。」と思っていました。

 水位は徐々に下がってきました。案の定、車は海水にやられ、使えない状態に。徒歩で6時間、私は息子のアパートへ向かい、無事、息子と会えました。私の子供は3人とも無事でした。次に、付近の避難所を回って夫を探しましたが、1週間経っても見つかりませんでした。

 私達は捜索を続け、夫の職場に行ってみましたが、会社側は把握していない様子。すると2週間後、会社から息子へ連絡が来ました。私はその知らせを疑いました。「夫が亡くなった?まさか、なぜ!?」その後、家族で遺体安置所に行き、息子が通訳をし、そこの担当者と名前を確認しました。遺体を見せられましたが、顔は夫と全くの別人と思いました。しかし遺品を見せられた時に分かりました。「ああ…本人だ…」。夫の虫めがね、バッグ、会社の服、携帯電話。海水で変わり果てた姿になっていました。元気だった夫、きっとどこかで無事でいると思っていたのに…ショックで言葉が出ませんでした。夫は午後3時半、自転車で職場を出て、15分程後に津波にさらわれました。職場から家までは30分。その途中で夫は津波で亡くなりました。

 心の中では「津波の情報は無いし、夫への助けは無かったのか。夫に今すぐ帰って来てほしい。そしてまた一緒に生活したい。これからどうすればいいのか…」と、悔しさと苦しさで、その現実を未だ受け入れられずにいます。