「立法と調査」掲載「日本語と日本手話 ― 相克の歴史と共生に向けて ―」に対して当連盟の反論レポート



 2017年参議院事務局企画調査室編集・発行「立法と調査」2017.3 No.386に掲載されている「日本語と日本手話 ― 相克の歴史と共生に向けて ―」に対し、2018年3月22日付で当連盟の反論レポートを参議院事務局企画調整室へ送付しました。
 手話言語はろう者の生きる力であり「命」です。その手話言語に対して正しい認識を広めるために、同レポートを公表することといたしました。
 尚、同レポートは日本聴力障害新聞2018年4月号にも掲載致します。

「日本語と日本手話 ― 相克の歴史と共生に向けて ―」に対して

一般財団法人全日本ろうあ連盟
副理事長 小中 栄一

 これは、参議院事務局企画調査室編集・発行「立法と調査」2017.3 No.386 掲載の第三特別調査室山内一宏氏の資料(以下、山内氏資料)「日本語と日本手話 ― 相克の歴史と共生に向けて ―」の中で、全日本ろうあ連盟(以下、連盟)について書かれていることが事実とは違うものであることから、以下に提示するものです。

1.山内氏が連盟について書かれていることが、どのように間違っているのでしょうか。
 山内氏資料には、「日本手話と日本語対応手話との並立については、連盟は「ひとつの手話路線」を堅持し、両者の融合を目指している。しかもそれは「二つの手話を足して二で割るのではなく、ろう者の手話「日本手話」を日本語対応手話に、あるいは日本語に同化させる方向への試みでもあった」と、斉藤道夫氏の「手話を生きる」という著作をもとにした記述がみられます。
 全日本ろうあ連盟は、「手話」をひとつの言語と主張しています。山内氏は連盟が「日本手話と日本語対応手話の融合」、「日本手話を日本語対応手話に、あるいは日本語に同化させる方向の試み」であると記述していますが、全くの間違いです。連盟がそのようなことを述べている事実は一切ありません。
 私たちは、ろう者の人権が尊重される共生社会を築き、文化水準の向上、福祉推進をめざす運動団体です。また加盟団体においては会員であるろう者の親睦と交流を大切にして、様々なろう者を会員としています。ろう学校で幼少時から育った人もいれば、幼少時に地域の学校で学び途中からろう学校に転入した人、そのままろう学校を経験せずに社会人になった人など様々なろう者が会員になっているのです。また聴力においても全く聞こえない人もいれば、補聴器を装用して聴覚を活用している人もいます。成人してから手話に出会い、「手話」を学びながら、流ちょうな手話を使う人がいれば、なかなか流ちょうにならず日本語に即した手話を使う人がいます。これはあたかも英語を習う聞こえる人と同じ状況と言えます。中学校、高等学校の6年間英語を学んだにも関わらず英語をマスターできず日本語的な英語表現をする人もいます。この場合、英語力が問われる話のレベルであって、日本語対応英語とは言いません。同様に連盟は成人してから手話を学ぶ人たちの手話表現について、英語力が不足しているのと同じように、手話が流ちょうでないと思っているだけであり、ことさら「日本語対応手話」という言葉を使うことはしておりません。
 「手話はひとつの言語」というのは、「日本手話」という言葉も「日本語対応手話」という言葉もわざわざ用いる必要もなく、また優劣をつけることなく、一人ひとりが自由に使っていることを象徴するフレーズであって、連盟は「日本手話」と「日本語対応手話」をことさら人為的に区別して、その融合を目指すとか、「日本語対応手話」に同化させる方向の試みということは全くしていません。
 筆者は、成人してから手話を学びはじめ、地域のろうあ協会に誘って頂いて会員となり、役員として活動してきました。当初は、単語は同じでも語順は日本語になる手話を何とか使える程度でしたが、ろう者の皆さんは普通の手話で話しかけてきました。読み取れないことも多く苦労しましたが、だんだんと慣れてきて、何を伝えようとしているかは理解できるようになり、少しずつ手話がうまくなってきました。今でも手話はまだ流ちょうでなく、もっと上手になりたい、どうしたら上手になれるのかと悩んでいます。しかし、手話が流ちょうでない筆者に対して、「あなたの手話はダメだ」と否定されたり、仲間はずれにされたりすることはなく、いつも温かく見守ってくれました。なので、今に至るまで会員を続け、役員活動を続ける事ができているのだと思います。
 つまり連盟は、手話については一人ひとりの自由に委ねていて、一人ひとりに寛容なのです。様々な生い立ちや教育歴のろう者がいますから、手話の流ちょうさ、発語の上手下手、読み書きの得手不得手、発語、読み書きの得手不得手、また話し方の得手不得手などの見方がでることもあるでしょう。連盟の理事が日本語のような手話を使うのは、そのような話し方を上位においているのではなく、法律、福祉、運動などに関わる専門的な日本語を多く使う関係で、手話に置き換えることが難しい日本語をそのままに手話で表現することがあるからです。
 連盟はもちろん誰でも流ちょうな手話表現を求めたいと思いますが、手話表現の流ちょうさで差別することがあってはならないと考えます。また「日本手話」と「日本語対応手話」を区別することで、ろう者や手話通訳者など手話を使う人たちを言葉でもって分断することは間違いと考えます。
 「手話はひとつ」というフレーズは、手話という言語がひとつという意味であって、「ひとつの手話路線」を堅持し、両者の融合を目指しているということでは全くないことを理解して頂きたいと思います。

2.山内氏は、「連盟が日本手話の存在を認めない以上、本当のろう者の自立は達成できないのではないか。手話言語法の手話をどのように定義するのか、それにより本当の意味でのろう者の自立とろう文化の進化、そしてろう児の健全な成長に大きく影響を及ぼすことになるだろう。」と述べています。
 連盟は「日本手話言語法案」(修正案:2017年2月23日)の第2条の定義において「日本手話言語(以下、手話言語とする。)とは、日本のろう者(盲ろう者等を含む)が、自ら生活を営むために使用している、独自の言語体系を有する言語を指し、豊かな人間性の涵養及び知的かつ心豊かな生活を送るための言語活動の文化的所産をいう。」としています。「独自の言語体系を有する言語」としての手話言語は、山内氏の資料に掲載されている言葉の「日本手話」の意味するところと同じであり、連盟は「日本手話」の存在を認めるとか認めないとかの問題でなく、音声言語とは違う独自の言語体系を有する言語である「手話言語」が使いやすい環境整備を求め、共生社会を築こうとしています。
 山内氏の資料に「1990年代まで、日本語対応手話が正しい手話とされ、日本手話より社会的上位に位置づけられ」と記載されています。この記載が、山内氏をして「日本手話」と「日本語対応手話」を対立する関係にあると見なした原因でしょう。
 しかし、「1990年代まで、日本語対応手話が正しい手話とされ、日本手話より社会的上位に位置づけられ」たと山内氏が述べている事実はありません。それは一部のろう教育関係者の予断と偏見による発言であり、連盟は全く関知するところではありません。山内氏が、ろうあ者当事者団体に確認することなく、一部のろう教育関係者の発言を拠り所にしていることについては遺憾に思います。
 歴史的に見れば、ろう教育において口話法、聴覚口話法により「国語」を身につけ、聞こえる人たちが大多数の社会に適応して生きていくことを目標に指導する時代があり、手話が「手真似」と呼ばれ排除されてきたということが問題の本質です。ろう者は、ろう学校の教育において好むと好まざるとに関わらず、日本語を発音発語すべきことを教えられました。後に手話への評価が高まった時点で、発語しながら手話を使うことを目指したトータルコミュニケーション教育が、教育側から提唱されたことがあります。この提唱は手話への評価を高めたという一面がありましたが、同時に手話を日本語の下位におく、日本語に従属させる発想でもありました。このトータルコミュニケーション教育を導入するために手話単語を創作・改変し、語順も日本語に合わせ、日本語と手話を同時に話せる仕組みをつくったので、同時法手話と名づけました。同時法手話はいわゆる「日本語対応手話」として一部のろう学校で教えられたことはありますが、ろう者に普及することはありませんでした。
 日本で手話サークルが生まれ、全国に広がり手話が聞こえる人たちに普及していく過程で、聞こえる人たちが手話を理解し覚えやすいよう、発語しながらの手話で教えた時期がありましたが、これらは、手話に対する理解も不十分な時代、まして聞こえない事への理解も乏しい時代にあって、手話の普及に取り組まざるを得なかったことが背景にあることをきちんと見据えなければならないと思います。
 私たちは口話法中心の時代のろう教育において日本語の発語、発音を教えられました。それでも、発語を伴わず音声言語とは違う独自の言語体系を有する言語としての手話を発展させました。しかし、聞こえる人たちや難聴者・中途失聴者に日本語の語順に即して教え、日本語を発語しながらの教え方になったとしても、私たちろう者内部でのコミュニケーションに使う手話に変化はありません。今や手話を学んでいる聞こえる人たち、難聴・中途失聴者は、ろう者とコミュニケーションしやすいように手話の上達に努めている状況にあります。
 聞こえない人の社会参加が広がるにつれて、さまざまな手話表現が生じ、手話言語と日本語が影響し合い、手話言語の語彙や文法を豊かにしていったという進歩的な側面こそ注目すべきです。これこそ手話が言語である証であり、言語としての特性を有していることを理解する必要があります。

3.手話言語法・条例の目指すもの
 連盟が2016年11月に発行した「手話でGo ! 2?手話のある豊かな社会を 手話言語法制定に向けて?」(日本財団助成事業)では、下記のように掲載しています。
「手話が日本語と同等の言語であることの認知をもとに、日本語と同様に手話言語が使える条件整備、社会環境の整備に向けた諸施策が期待されます。
 聞こえる人が乳幼児期から発達段階に応じて日本語を獲得・習得し、日本語を使用して学び、生活し、豊かな文化を築き上げてきたのと同様に、ろう者にとっては、発達段階に応じて手話言語を獲得し、手話言語を使用して学び、生活し、豊かな文化を築いていけることが望まれます。
 コミュニケーション手段の選択権が与えられたとしても、手話言語を獲得・習得する機会が与えられていなければ、ろう者にとってその選択の権利は行使することができず意味がありません。
 ろう者が自分の言葉として手話言語を獲得し、手話言語で学習し、豊かな思考ができるよう、発達段階に応じて手話言語の学習機会が保障されることが期待されます。
 そして、情報そのものが手話で発信されていれば、ろう者はより豊かな言語生活を享受することができるのではないでしょうか。社会のあらゆる分野で、手話言語での情報提供や手話での意思疎通が増えることが期待されます。」
 ここでいう手話言語について補足しますと、
 ①ろう者が自分の言葉として手話を獲得するため、発達段階に応じて手話言語の学習機会が保障され、手話が使いやすい環境(手話による情報提供や意思疎通)を整備していくこと。
 ②音声言語(日本語)にアクセスするコミュニケーションのひとつとしての手話を普及し、手話による情報提供や意思疎通が増えること。
 ①については、ろうコミュニティの大切さ、ろう文化が社会に理解され、聞こえる人に
合わせるのではなく、聞こえない・聞こえにくい人としてのありのままのろう者の生き方ができる社会環境づくりです。これは、聞こえる人たちが、聞こえない・聞こえにくい人としてのろう者への理解をもち歩み寄ることとも言えます。
 一方で、②については、聞こえない・聞こえにくい人達が、音声言語(日本語)にアクセスする権利を保障することです。そして聞こえない・聞こえにくい人達が聞こえる人達に歩み寄ることとも言えます。つまり、お互いに人として尊重しつつ、多様な言語、文化を共生する姿勢が基本にあり、その視点から手話言語法・条例の制定、施策づくりを進めることを理解して頂ければ幸いです。